私の車遍歴
人生初の車はパブリカでした。
免許取立てのころは、友人と道を覚えるためと称して夜中の道を
当ても無くドライブしていました。

夜中の高尾山では、奇妙な出来事に遭遇しました。
其れは、妙齢な美人さんを乗せたことから始まります。
その女性を乗せたことで、私には、何か霊を感じる事ができるかもしれないと、思い始めるきっかけに成りました。

怖い話はさておいて、この車でレースに度々参加しました。
鈴鹿のヘヤーピンカーブでオイルに乗ってスピンして、九死に一生を得たこともありました。

空冷の音が「コトコト」と可愛らしく響き、兎に角思い出に残る車です。
2代目は、パブリカ・コンバーチブルでした。
真っ赤な屋根の無い車でした。

このショットは、学生の仲間と京都に旅行したときのものです。
このときは2月だと思いますが、雪が降り出したのも関わらず、粋がって京都の町をオープンで走り回ったものでした。

この頃から、モダンジャズのバンドを結成して、クリスマス時期などには多いに稼いでいました。


此れは、ワーゲンのカブリオレで、1956年製だと思います
がよく走りました
中古でしたが、この当時この手の車は手に入りにくく、今でも
この時代に、よく乗れたものだと思います。探してくれた車屋
さんに感謝です。
4万キロ近く乗ったと思います。
最後手放すときは、後席の床が錆びて抜け落ちてしまいました。

幌の隙間から雨水が浸みて床に溜まり其れが錆を呼んだ
ようです。
でもこの辺から屋根の無い車に、のめり込む事になります。
この前はホンだN360でした。

パブリカ・スポーツ800です。
此処までは空冷エンジンばかりです。
この辺りから杉野のバスケットを
コーチするようになりました。

何と気障では有りませんか!
杉野から、日立戸塚へコーチする場所を変えた結果2人
乗りでは役に立たず、沢山の人が乗れる車に変わって
いくことに成りました。
その第一号車が、夕日に輝くクラウンでした。
この車で、島根から宮城までリクールートの旅に度々
出かけました。

その結果沢山の選手が日立戸塚に来てくれることにな
り日本リーグ入りの足固めが出来ました。

中古で買ったこの車も東名が出来たばかりの浜名湖
付近で息が絶えてしまいました。


沢山人が乗れて・・・と言えば此れしかないでしょう!
自家用でマイクロバスを購入してしまいました。
日本リーグに入る為には、選手も練習も大切ですが、
試合をしてみないと今やっている方向で良いのか、
本当に強いのか?レベルが分かりません。

その当時強いチィームは、戸塚から遠い場所にしか存在
していなかったので、遅い練習ゲームを組むと電車では
帰って来れなくなり、効率が悪くなります。
そこで、マイクロバスが多いに役に立ったと言う訳です。
交通費も軽減できますし、つらいのは自分だけと言うこと
でしたが・・・
その結果、名古屋での入替戦に勝ちコーチし始めて1年
半と言う短さで、日本リーグに入ることが出来ました。
この年の入替戦は、来年度から日本リーグが8チィーム
から6チィームになる年で、上から2つも強いチィームが
入替戦降りてくるので、その強い2チィームに勝たなけれ
ば上へいけないので、とても大変な入替戦でした。

古いマイクロバスでしたが、遠征、合宿、そしてキャンプ
、レクレーションと大いに活躍をしましたが、全日本選手
権のとき第三京浜の出口で故障をしてしまい、其処から
代々木体育館までタクシーで行かざるを得なくなることが
起きて、会社が、新しいマイクロを購入してくれることにな
り役目は終わりました。
車に纏わる思い出を書いてみました。
赤いジムニィーです。
主にママ用でしたが、彼女が運転すると、私は
戸塚の暴走族が来たと言っていました。

戸塚の川はよく氾濫をしましたが、そのときは多
いに役に立ちました。

河川や、海岸に出かけては冒険をしていました。
この車も、フル幌でオープンでした。


家族も増えたので、4ドアーのブルーバード
に乗りました。
しかし、写真を撮る間もなく東名で、トラックに
幅寄せに遭い左側面を平らにされる事故の
為、廃車・・・くやしい〜!




そこでもう少し早く、目立つ車と言うことで
Z 2+2ターボに成りました。
Tバールーフで、屋根は空きます。

やはり、ジムニーでは遠くへ、リクルート
行けないので、併用をしていました。

、赤い3000ZR Z 2+2 Tバールーフです。

此れはナカナカ良く走る車で、気に入って
居ました。


しかし、その後、全日本に出た為に、戸塚の
成績が振るわなくなり、外人も会社としてNO
と言うこともあり、心労が重なりダウン!
3ヶ月に渡り、肝臓で入院 !
このときは色々考えさせられましたね〜

車に限って言えば、スピードの出ないモノに
変えようと言う結論でした。
そして、どうしても乗りたい車に乗ろう!
又何時病気に成るかも知れないのだから・・・

勝手な理屈ですが、ママと相談の結果、ついに
モーガンを手に入れました。
とてもシンプルな車で、木骨ボデーですので、軽く
燃費はすこぶる良かったのです。

20年近く乗り、13万マイルを走りぬきました。
冷房も無く、雨、風、寒さ、暑さ、その季節を
確実に走っていると言う実感を感じさせる
とてもスパルタンな自動車です。

何処に止めていても、あんなとこに居たでしょう!
と直ぐに見つかってしまいました。

戸塚をやめてからは、3ヶ月一人旅をモーガンと
してきました。

そのとき感じたことは、とにかくバスケットが好きな
子供たち、指導者が沢山居ることでした。

帰ってから、日立の男子をコーチすることになり、
30年近くコーチしてきた女子畑から、転進をする
ことになりました。

その後の50才台は、日立5年・ゼクセル5年弱と
男子を約10年近くコーチをして現役をリタイヤー
することになります。

前述した様に、3ヶ月でのたびの経験は、その後
ミニを指導する大きなエネルギーになりました。


やはり屋根の無い自動車が好きで、
BMWのカブレオレです。

日立の柏体育館に此れで通っていました。

この時代に、Jennyが家にやって来た為
BM独特の低音エキゾーストノートを嫌い
乗らなくなってしまいました

やむなく、少し大きめで屋根のあるジャガーにす
ることにしました
Jennyとの付き合いはこの車なしでは
語れません。

後席が広いので、何時もくつろいで乗
っていました。

山中湖にあるログハウスでは何時も
楽しい笑い声が響いていました。


















モーガンにあこがれて英国車に乗り
始めると、古い車のスタイルが気にな
り、遂にはジャガーのW-SIXに手を
出してしまいました



しかし、12気筒、4,2リットルは大食い
で、左右のタンクに50リットル、
合計100リットルも飲み込み、此れに
は参りました


W-SIXは燃費については何も言いたくないけれども、他のことについてはこれほど感生に訴える車は
過去にありませんでした。
しかし乗り続けたい気持ちは、この車をメンテナンスしてくれていた名人が若くして、突然この世を去って
しまった事により、乗り続けることが不可能になってしまいました。

Jennyも年を重ねユックリと乗れる場所のある車を必要としてきました。
そこでレンジローバーの登場になりました。現在、15万キロを後にしていますが、屋根の無いハードな
2シーターから始まった自動車との生活でしたが、見渡しの良い、コマンドポジシヨン、ゆったりと運転
したくなる佇まい、ユラ〜リと回るコーナー、 安心した様に眠っているいるJenny、尽く良い自動車にめぐり
合えたな!と思います。

Jennyは居なくなりましたが、どうもこの車は手放す気持ちになれずに居ます。
多分、この車が私の運転する最後の車になるのでは?そんな気持ちで居ます・・・
私の、自動車との思い出、如何でしたか?

ご意見をお聞かせください。

eno@basket-enomoto,jp